大学入試改革に沿った学習方法の改善について

1.新大学入試の概要

(1) これまでの入試との相違点

 

(2) 求められる能力

これまで(~2019年度) 改革後(2020年度~)
・一つだけの正解を求める ・答えが一つに決まらない問に対し最適(最善)の解答を導く
・答えのみを出せばよいことも多い ・答えに至る過程も必要
・マークシートの場合、知識が多少曖昧でも正答が可能 ・正確な知識が必要

また、複数教科にまたがる出題(教科横断)も検討されているようです。
但し、受験すれば、ほぼ全員が合格する「Fランク」と呼ばれる大学については、これまで通り、小中学校の内容すら怪しくても、合格できることには変わりはないものと思われます。

 

新中学3年生より下の学年のお子さんは、改革後の大学入試において「思考力・判断力・表現力」を問われることになります。識者は、今回の改革を「明治維新以降、最大の改革」と評しています。
これは、これまでの「ただ一つの正解を短時間で答える」という試験問題では、自立した社会人として不可欠な「思考力・判断力・表現力」が身につかないということを意味するものと考えられます。これまでの学習方法では、なぜ「思考力・判断力・表現力」が身につかないのかというと、
様々な要因が挙げられます。

a.生活全般において、工夫(思考)を必要とする環境が減少したこと

b.新聞・書物などの活字に触れる機会が激減したこと

c.「なるべく面倒なことをしたくない」という子どもの要求を満たすために、

・なるべく労力をかけず(努力をせず)に答えを出せる
・短期間でテストの点を取らせるために、本来重要な「考え方を」省略し、理解をしていなく
ても答えだけは出せる
・自分で考える時間をほとんど取らずに、一から十まで一方的に教えてしまう
・自分で調べる時間をほとんど取らずに、一から十まで一方的に教えてしまう

という学習方法が横行していること。

d.「なるべく短期間で(なるべく費用をかけずに)テストの得点を上げて欲しい」という保護者の要求を満たすために、

※短期間でテストの点を取らせるために、
・本来重要な「考え方を」省略し、理解をしていなくても答えだけは出せる
・自分で考える時間をほとんど取らずに、一から十まで一方的に教えてしまう
・自分で調べる時間をほとんど取らずに、一から十まで一方的に教えてしまう

 

という学習方法が横行していること。

現代の子どもたちの多くは、

・短時間で身につくこと
・少しの努力で身につくこと

のみが身につき、

・多くの時間をかけなければ身につかないこと
・多大な努力をしなければ身につかないこと

が身についていないという印象を受けます。
人間に共通する心理として、

「遠い将来の重要なことよりも、目先のあまり重要でないことを優先してしまう(双曲割引・時間割引率などといいます)」というものがあります。

ほとんどの人間は、このことを意識しないまま「将来の重要なこと」よりも「目先のあまり重要でないこと」を優先させています。

これと同様に、ほとんどの子どもと一部の保護者の方は、意識しないまま「全てのことは短期間で何とかなる方法がある」と思い込んでいる様な気がします。

 

しかし、スポーツで言えば「筋力」「持久力」などは、フォームを修正することで、すぐに効果が現れても、それ以上は長期に渡って継続的に負荷をかけることでしか、効果を得ることはできません。
「短期間で何とかしよう」という方法があるとすれば、ドーピングなどに頼るしかありません。

これと同様に「思考力・判断力・表現力」も、テクニックを用いることで多少の効果は見込めますが、それ以上は長期に渡って継続的に負荷をかけることでしか、効果を得ることはできません。

 

日本では1872年に義務教育が始まってから約150年が経過しました。義務教育開始当初の目的は「近代国家における社会生活に必要な知識・能力を身に付けること」でした。言い換えれば、「社会人を育成するための訓練(トレーニング)」です。

それ自体は現在も変わっていないはずですが、変わってきたのは「教育を受ける側」がこのことを意識しているか否かであると考えます。

誰しも「面倒・苦労・努力・忍耐」はしたくないのが本心でしょうが、「訓練(トレーニング)」である以上、「面倒・苦労・努力・忍耐」は「進歩・成長」のために不可欠です。

 

「進歩・成長」につながる「面倒・苦労・努力・忍耐」 →取り組むことで将来の可能性が広がる

「進歩・成長」につながらない「面倒・苦労・努力・忍耐」→しない方が良い

 

「教育」の本当の目的を今一度、考えてみる必要があるのではないでしょうか?

 

2.「思考力」を身に付けるための学習方法

私は、かなりの現代の児童・生徒・学生は「知力の生活習慣病」にかかっていると考えています。
日常生活で「面倒なこと」を避け、「好きなこと」「楽なこと」を選択し続ける姿勢が原因です。
それでは、「知識」「思考力」「読解力」をつけるには、どうしたら良いのでしょうか。

これまでの延長線上では、身につかないことは明らかです。「明治維新以降、最大の改革」が真実なのであれば、学習方法にも大きな転換が求められるはずでしょう。

(1) 学校における指導

a.アクティブラーニング

学校の授業を今までの一方通行の講義型ではなく、生徒同士での意見の交換などを中心とする「アクティブラーニング」を取り入れることが謳われています。確かに、うまく機能すれば、これまでよりも思考力・表現力が高まる可能性はありますが、本当にうまくゆくのかという点については、疑問が残ります。
2002年から始まったいわゆる「ゆとり教育」における「総合学習」が、今回の改革に内容・目的ともに酷似しています。「ゆとり教育」における「総合学習」が上手くゆかなかった理由はいくつもあるのでしょうが、主な理由は以下の3点であると考えます。

・指導する側の力量にバラツキがあり、テーマの選定や進行などが適切でなかったこと
・40分~50分という短時間に多数の生徒が発言し、結論まで到達することが困難であったこと
・生徒の知識・能力・意欲にバラツキが大きいと討論が成立しないこと

公立の小中学校において、これら3点が解消される可能性は非常に低いものと思われるため、「アクティブラーニング」も上手くゆかない可能性が高いのではないでしょうか。

b.集団指導の限界

「思考力」を高めるためには、適切な難易度(簡単すぎても難しすぎてもいけない)の課題に対し、全力で粘り強く取り組むことが不可欠です。しかし、学校の授業では、知識・能力・意欲にバラツキが大きく、全員にとって適切な課題を設定し、全員が同じ時間で取り組まざるを得ないため、上手くゆかない可能性が高いのではないでしょうか。

 

(2) 家庭生活

a. 粘り強く全力で取り組む環境を整えること

先にも述べたように、大半の生徒は「面倒な」「やりたくない」ことには、なるべく労力をかけないという取り組みをしています。そのうちの一つとして、「先延ばし癖」が見られます。ギリギリになって宿題などに手を付けると「一目見て答えられる問題のみに解答し、時間がかりそうな問題は全て空欄にする」という取り組みになります。これは、宿題の本来の目的である「身に付けること」がかなわず、新たな知識は全く身に付かない取り組みです。
また、思考力は「正解が出る・出ない」に関わらず、色々な角度から論理的に考え、試行錯誤を繰り返す中で身に付くものですが、一目見て「わからない」と手を付けない学習方法では、身に付くはずがありません。論理を無視して「答えの出し方(公式など)」のみを用いる学習方法も同様です。

b. 活字に触れる機会を設けること

書籍・新聞などに触れる機会を持たないことやスマホの普及による若者の活字離れが言われて久しくなりますが、有効な解決方法は見いだせないようです。

c.同じ失敗を繰り返さないよう工夫をすること

d.日常生活で常に複数の選択肢とそれらのメリット・デメリットを考えること

「毎日ジョギングをする」「間食をしない」など、個々の行動は簡単であっても、継続して実行することは非常に難しいものです。同様に上記の4点も、個々の行動は簡単であっても、継続して実行することは非常に難しいことでしょう。

 

(3)その他の場所

先にも述べたように「これまでの延長線上」に過ぎない行動では、大きな改革には対応できません。「学習」の目的を「なるべく労力をかけずに(効率が良いと言うようです)テストの得点を上げること」に置くのであれば、労力をかけなければかけない程、その目的が叶えられることになりますが、「学習」の目的を「社会に出るためのトレーニング」に置くのであれば、労力をかければかけるほど、その目的が叶えられることになります。
昔から「言うは易し、行うは難し」をいう言葉もある様に、「やった方が良いのはわかっているけど、できない」という生徒が大半でしょう。鍵は、これをどのようにして実行に移すのかというところにあります。ポイントは、以下の2点だと考えます。

a.生徒の意識改善

人口の半数以上が農業に従事していた江戸時代までは、農家は農業のことだけが、商人は自分の商売のことだけがわかっていれば、特に困ることはありませんでした。しかし、明治以降の「富国強兵」の政策の中で「工業」「商業」で働く人が増え、「教育」の必要性が高まりました。その傾向は1950年頃まで続き、就業年齢が早かったことや、自営業の割合が高かったこともあり、当時の子どもたちは、現在よりも遥かに「遊ぶ時間」は少なかったのです。
しかし、高度成長期に「贅沢を言わなければ、誰でも安定した仕事に就ける」「サラリーマンが増え、家業を手伝う機会が減る」などの要因が増えたことから、「教育」の本来の意味合いが薄れ、学生時代が「モラトリアム」とも呼ばれる「仕事をする前に好きなことをして過ごして良い期間」になりました。
全員が「安定した生活を営むこと」が難しい時代になった現在、今一度、「トレーニング」という意味合いを考え直す必要があります。

 

b.「推奨」から「義務」へ

例えば、部活動の指導者から、「毎日、自主的にグラウンドを10周しなさい」と言われても、誰も見ていない状態で、それを継続できる人間は僅かでしょう。それを実行した人は、しなかった人に比べて、1試合走り続けられるだけのスタミナをつけるという点において、明らかに有利であるということは、ほぼ全員が理解しているのでしょうが、それが動機にはなかなかつながらないようです。

しかし、これを部活動の中に「全員でグラウンドを10周する」という形で組み込むと、よほどの根性なし以外は、実行することができるでしょう。要は、「やった方が良い」という「推奨」を「やらなければならない」という「義務」に置き換える以外の方法は無いということです。

 

3.まとめ

最後に今一度、「思考力」「読解力」を身に付けるために必要なことを挙げておきます。

1.「面倒だから」「やりたくないから」と感じることを避けて通らず、取り組むこむこと
2.ゲームやスマホなど、「楽しいこと」「やりたいこと」を制限すること

上記の2点は、「欲求をコントロールする」という点において共通しています。

3.日常的に「新聞」「書籍」などの活字に触れる時間を設けること
4.短時間で形だけの学習をするのではなく、適切な難易度の問題に全力で取り組むこと
 また、簡単にあきらめずに試行錯誤をするだけの十分な時間をかけること
5.日常生活においても常に「本当の目的」を考え、そのために必要な行動をとること
6.日常生活においても常に「考えられる限りの選択肢」を挙げ、最適のものを選択すること

 

繰り返し申し上げますが、全てが「言うは易し、行うは難し」の行動です。しかしながら、今回の改革が「従来の学習方法」では身に付かないものを身に付けることを目的とする以上、行動も大きく変えることが不可欠です。

昔から

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」
「艱難辛苦汝を玉にす」
「良薬は口に苦し」
「ローマは一日にして成らず」
「玉磨かざれば光なし」
「石の上にも三年」
「雨だれ石をうがつ」
「急がば回れ」
「可愛い子には旅をさせよ」
「苦あれば楽あり楽あれば苦あり」
「先んずれば人を制す」
「失敗は成功のもと」
「少年老いやすく学なりがたし」
「忠言耳に逆らう」

など、現在の努力を勧めることわざは枚挙にいとまありません。20年後に「あの時にやっておいてよかった」と思うのか、「あの時にやっておけばよかった」と思うのか、それは今の行動によって決まります。戻ってやり直すことはできません。

 

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